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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

考古学・歴史日記03年

2003/06/24(火) 考古学と地底探査

 今日の夜は講演があった。講師はキール大学のハラルド・シュテュンペル氏。この人のチームとはほぼ毎年トルコの発掘現場で顔を合わせている。
 氏の専門は地質物理学(日本語では正確にはなんというのだろう)で、もともと地震の研究などに使われていた地底探査を考古学に応用する仕事をしており、世界的な第一人者の一人である。ちなみにキール大学ではこうした理系の応用学問が盛んなようである。

 地底探査とは、地下に眠っていて目に見えない構造物を探査するものである。地中に電波や磁波を流してその反応によって地下の構造物が見えてくる。上に述べたとおりもともと活断層などの調査に使われていたのだが、考古学に非常に有用であるので今ではもっぱら考古学の研究法として発達している。
 「考古学」というとすぐに「発掘」を連想するが、あてずっぽうで掘る場所を決めているわけではない。発掘に入る前に入念に地面に散らばっている土器片や石器を拾い集め、遺跡の範囲や「何かありそうな場所」の見当をつける。しかし、この伝統的、かつ現在も支配的な方法では、地下に何が眠っているか分からない。だから当たりはずれが出てくる。
 しかし地底探査をすれば、地下の構造物の輪郭や規模が発掘をしなくても分かってしまう。「はずれ」が無いので無駄な発掘をしなくてすむし、発掘とはすなわち遺跡の破壊であると思えば(遺跡保護の観点からすると、掘らずに放っておくのが本来一番の保存法である)、「遺跡にやさしい」ともいえる。
 地中に磁波を流すと、レンガや焼け土が反応するのでレンガ造りの建物の輪郭がはっきりとコンピュータ上の画面に真っ黒に浮き上がってくる。逆に石灰岩や砂岩で作られた壁は全く磁波に反応しないので真っ白に写る。それで逆に壁の存在が分かるのである。また電波を流すと(漁船に積んである魚群探知機と同じ)、輪郭は磁波に比べてぼやけたものだが、地表からどれくらいの深さかが分かる。
 もっともこの地底探査、どこでも使えるわけではない。一番いい例が日本の遺跡で、近代以前の日本の建築物は石をあまり使わないので、磁波で探査しても炉の存在くらいしか分からず、建物の輪郭などは期待できない(まれに柱穴が分かることがあるらしいが)。また日本みたいに遺跡の土砂堆積が少ないと、色々な時代の建物がお互いに絡み合ってごちゃごちゃになってしまう。逆に京都や東京みたいに色々な時代の遺跡が幾重にも重なっても、ごちゃごちゃになってあまり地底探査の成果はあがらない。日本で行われている地底探査は、電波による縄文時代の貝塚の範囲確認くらいではないだろうか。
 この地底探査がもっとも向いているのは、中近東や地中海沿岸である。この地域では石造りや日干しレンガの建物が多いからである。キール大学のチームも、セリヌント(シチリア島のギリシャ人植民市)、ミレトス(トルコ・エーゲ海岸のギリシャ都市)、クシャックル(トルコ・ヒッタイト帝国時代の都市遺跡)、チョガ・ザンビル、ハフト・テぺ(共にイラン)といった遺跡で調査している。労力や時間、そして金のかかる発掘をしなくても、古代都市の構造や規模が分かってしまうのである(もちろん、発掘しなければ分からないことのほうが多いのだが)。
 ちなみにこの地底探査で埋まっている金属器を探すことも出来る。普通は地雷探知機を使ってやるのだが(僕もしたことがある。もっとも最近の地雷は、金属探知機に反応しないようにプラスチックや木材で出来ているのだが)、上の方法なら広い範囲を効率良く探知出来る。


2003/07/01(火) 700年前のアウトバーン

今日は夕方講演があった。夕方も雨が降ったり止んだりしていたので、行こうかやめよかどうしようと思ったが、予想に反して面白い講演だった。

ノルトライン・ヴェストファーレン州の東部(ヴェスト=西・ファーレンというよりオスト(東)ファーレンである) に、パダボーンPaderbornという町がある。人口13万と大きな町ではないが、カトリックの司教座があり、ドイツでもっともカトリックの強い町であるらしい。Dに言わせれば、ドイツでもっとも宗教的に保守的な町だそうだ。
そのパダボーンの西の郊外に工業団地が建設されることになり、発掘調査が行われた。その結果、南北1km、東西400mくらいの集落の遺跡が発見された。この遺跡はローマ帝国(といってもこのあたりはローマ帝国の版図の外だったが)時代の1世紀から、中世後期の14世紀頃まで連続していたことが分かった。幾重にも重なって繰り返したくさん作られた住居は竪穴式で、やはり「遅れてるう」という印象をもった(といっても、日本だって農村部では平安時代頃までは竪穴式住居が普通だったのだが)。だが、この遺跡でもっとも大きな発見だったのは、集落を横切る中世の街道が見つかったことだった。
中世のドイツにはいくつかの主要な街道があったが、その中でももっとも重要なものがヘルヴェグHellwegと呼ばれる東西ドイツを結ぶ街道だった。ベルリン・マクデブルクとデュイスブルクを結ぶ線上を走っていて、この線はちょうど北ドイツ平原と中央山地の境目でもある。一方、南北ドイツを結ぶ重要な街道の1つがフランクフルト街道で、こちらはストラスブールからデンマークまでを結んでいた。このヘルヴェグとフランクフルト街道が交差するのがちょうどこのパーダーボンの西の外れだったのである(現代のドイツ国内の南北・東西幹線の交差点は高速道路ならハノーファーHannover、鉄道ならカッセルKasselだろうが)。
この遺跡ではまさにこのヘルヴェグが見つかった。幅13mくらいで、真中が窪んでいて道の両側が高く(普通はローマ時代の道路のように、道の真中を高くしないと、今日のような天気の日には道の中央に水溜りが出来てしまうのだが)、表面には砂利が敷き詰めてあった。驚くべきことに、当時の馬車が通った「わだち」(車輪の跡)までもがくっきり残っていた。今の高速道路でいうジャンクション(交差点)も見つかり、そこでもわだちが合流するのが見事に残されていた。また道路上からはたくさんの馬の蹄鉄が見つかったほか、馬車の部品、コイン、鍵、巡礼者の標識などが見つかった(蹄鉄がそんなに簡単に外れていいのだろうか。それにお金や鍵を落とした人は困っただろうな)。
街道沿いにあったこの遺跡の集落は、日本ふうにいえば「宿場町」だったのだろうか。それにしては竪穴式住居というのはいささかお粗末である。道路の部分には建物が建てられたことは無く、この街道がかなり古い時代(集落の始まったローマ時代?)から存在していたことを窺わせる。いずれにせよ、14世紀初めにはこの集落も街道も放棄され、近くのパダボーンのみが都市として存続し、この遺跡のあたりは畑になった。
大陸であるヨーロッパでは遠距離交通の手段として早くから馬車や街道が発達していた(近代以前の日本ではなぜか馬車は全く使われなかった)。今でもヨーロッパは世界一の高速道路・鉄道網の密度を誇る。そんなヨーロッパでも、こうした交通、特に道路に関する考古学の調査はまだまだ多くないので、この遺跡は非常に意義のある発見だった。


2003/06/15(日) 人口からみた日本史

今日本を読んでいたら、面白いのがあったのでメモしておく。鬼頭宏「日本二千年の人口史」(1983年、PHP研究所刊)である。以下の記述は主にその内容によっている。
なお以下に挙げる数値は先史時代では遺跡の分布や密度からの試算、またそれ以降も断片的な戸籍や稲の収穫量などから復元されたものであり、誤差があることをあらかじめ言っておく。

日本列島に人が住み始めたのは遅くとも今から三万年前といわれるが、当時は狩猟採集生活、しかも氷河期で、食料となる植物や動物も限られていた(マンモスとかがいたが)。当時の人口は分からないが、一万人も居なかったであろう。日本列島全体で数千人である。めったに人に会うことも無かっただろうな。
やがて一万年くらい前になると、気候が温暖になり、狩猟・採集・漁労生活をしながらも定住生活をするようになるのが縄文時代である。縄文時代早期(紀元前7000年頃)で2万人だったものが、縄文時代中期(紀元前3000年頃)になると26万人にも増える。これは気候が温暖で食料に恵まれていたことによる。ところがだんだん気候が悪化(寒冷化)しはじめ、縄文時代後期(前2000年頃)には16万人、晩期(前1000年頃)には8万人にまで落ち込む。狩猟採集だけに、生活は不安定だったためである。
紀元前4世紀(最近の分析では紀元前10世紀)に、中国・朝鮮半島から稲作の技術を伴う人々が渡来してくる。比較的安定した食料供給が可能になり、この弥生時代の人口は59万人と10倍ほどに激増した。続く古墳時代(3~7世紀)の試算は無いが、奈良時代(8世紀)には日本の人口はさらに10倍の500万人にまで増えているところをみると、古墳時代というのは人口が爆発的に増えた時代であった。鉄製農具の使用開始、国家組織の形成による計画的な土地開発などがその背景だろうか。
ところが日本の人口はその後横ばい状態になる(減少こそしていないが)。平安時代の10世紀で人口600万人、しかも武士団の勃興した関東地方などでは村落が次々に放棄されたりする。飢饉も頻発していたらしい。鎌倉時代の人口はよくわからないが、平安時代と大差ないだろう。

次ぎの人口爆発は14世紀の南北朝時代に始まると思われる。この背景には鉄の生産技術など技術改良があったのであろう(中国からもたらされたのだろうか?)。関ヶ原の合戦の頃(1600年)には1200万人(他の本では1800万人とするのを見たことがある)、1721年(徳川吉宗の頃)の統計では3100万人に達している。南北朝時代、戦国時代(16世紀)と、この期間は戦乱続きの感があるが、その実人口は増え続けていたのである(逆にそれが戦乱を誘発する原因だったのかもしれないが)。
特に戦乱が収まり幕藩体制の確立した江戸時代前期(17世紀)の増加ぶりは凄まじい。17世紀後半に設定されている白戸三平の「カムイ伝」とかを読むと、武士による苛斂誅求、そして一揆が頻発して人が虫けらのように死んでいくが、あれは実に絵空事であると分かる(漫画としては傑作だが)。
江戸時代中期になると一端人口増加は停滞する。1846年(黒船来航の7年前)の幕府による人口調査では3200万人とされており、100年間でほとんど増えていない。この時期に飢饉や一揆が頻発したのは歴史の授業で習った通りである。
そしてもっとも最近の人口爆発はその直後の19世紀後半に始まる。いわゆる「富国強兵」から現代にいたる時代で、日本の人口は100年で4倍(1億2000万人)になった。もっともこの急激な人口増加も、ここ20年ほどで完全に頭打ち状態になり(いわゆる「少子化問題」「高齢化社会」)、今世紀には停滞・減少傾向になると見られている。

人口増加の原因は、上に挙げたように技術の向上や気候の変化(食料供給に影響)もあるが、医療技術の向上による乳幼児死亡率の低下や寿命の延長なども大きい。
日本の人口の歴史で特徴的なのは、何度かの停滞がありながらも基本的傾向としては人口は増えつづけていることである。14世紀にヨーロッパの人口の三分の一を奪ったペストのような疫病や、ドイツの人口のやはり三分の一を奪った30年戦争(1618~1648年)のような大戦乱、戦争や塩害による耕地の荒廃を経験したメソポタミア(イラク)、そして共産党の政策の失敗という人災により3000万人が餓死した「大躍進」政策時(1958年)の中国のように、大規模な人口減少を経験していない。これはやはり恵まれていたと思う。
このような大規模な人口減を経験するとそれ以前の価値観は崩れるだろうが、日本でそれがなかったことが、天皇家という世界最長寿の王朝を維持させた理由だろうか。また「伝統と最先端技術が共存する」といわれる日本の秘密もそこにあるだろう。
今は「少子化」の時代だが、過去の日本の歴史から見ればここらで停滞してもなんの不思議も無い(少子化による人口減というのは無かったかもしれないが)。ただその時代に合った策を採っていかないねばならないだろう。人口史的には「停滞の時代」でありながら、独特な文化を生み出した江戸時代の後半や平安・鎌倉時代が注目される。
むしろ世界全体では人口爆発は続いているのだから、そっちのほうが大問題ではある。江戸時代のように鎖国をして日本だけ平和ならいいや、というのはもはや不可能なのだから(食料を海外に依存している日本が鎖国するには、日本の人口が最大でも今の半分にならないと、そして今の便利さ重視・大量消費生活をやめないと、無理だろう。第一、江戸時代の日本だって完全に孤立していたわけではなく、少なくとも経済的には海外との結びつきは大きかった)。


2003/05/31(土) 弥生時代とアフリカの古代

       以下は備忘。昨日調べたこと。
 日本の先史時代というのは実に独特の歴史をもっている。土器を持っていて(しかも世界最古の土器である)定住しているにもかかわらず、狩猟・採集生活という縄文時代などはその最たるものだろう。
 さらには、「青銅器時代」というものが無いことである。日本と北極圏を除くユーラシア大陸ではどこでも(東南アジアも)、人類の歴史は「石器時代→青銅器時代→鉄器時代」と経過してきた。使っていた道具の材質によって人類史を分ける「三時期区分法」というやつである。
 ところが日本では、農耕(稲作)とともに鉄器と青銅器が一緒に入って来た(弥生時代の始まり。従来の年代では紀元前4世紀だったが、先週紀元前10世紀とする分析結果が出たばかりである。その時代にはまだ中国・朝鮮半島も青銅器時代だが、いずれにせよ日本に「青銅器時代」といえる時期ががないことは動かない)。つまり「石器時代→鉄器時代」という二期区分である。こうした地域はいわゆる「辺境」に多い。ポリネシアの島々やオーストラリアではヨーロッパ人が来航するまでは石器しかなく、農耕も根菜を主食とする粗放なものだった。
 ついでながら、灌漑を伴う高度な農耕技術をもっていた南米のアンデス文明などでも、簡単な銅製品はあっても青銅(錫との合金)や鉄の道具が発明されることは無く、また同様な中央アメリカではついに金属は発明されなかった(金属の道具無しであのアステカ文明を築いたのである)。南北アメリカ大陸に鉄器(さらにいえば、馬や結核菌)がもたらされるのは、16世紀のスペインによる征服のときである。

 金属器や農耕の開始の歴史が、経過も時期的にも日本に一番近いのは、実はサハラ砂漠以南のアフリカ大陸である。ナイジェリア、コンゴ、タンザニア、アンゴラ、ジンバブエといった地域で、おそらく北アフリカ(フェニキア、カルタゴ、ギリシャ人植民市、エジプト)から、日本とほぼ同時期の紀元前1千年紀後半に農耕(および牛の家畜化)や製鉄技術がもたらされたと考えられている。
 巨大な大陸であるアフリカと、ユーラシア大陸の端にへばりついている日本列島とでは、その後の歴史の経過が違うのは当然であるが、上記の事実はアフリカの歴史についてはほとんど無知である僕をはじめとする日本人(だけではないが)には意外だろう。アフリカというと「最近まで石の槍を使っていた」というイメージがあるのだから。
 日本列島がもう少し(あと500kmほど)朝鮮半島から遠かったら、ポリネシアのようになっていたかもしれないし(16世紀まで縄文時代が続いていた?)、位置がそのままでも日本が「ムー大陸」(笑)のような大陸だったら、アフリカのようになっていたかもしれない(統一国家や民族意識というものが形成されず、中国やインド、中近東の経済植民地、のちにはヨーロッパ列強による分割となっていた?)。


2003/06/04(水) 日本の木工技術

 今日も蒸し暑い一日。かなわない。
 ドイツは往々にして涼しい国なので、日本ほど冷房設備が普及していない(暖房や断熱材は充実しているが)。だから今みたいに蒸し暑い気候になると建物の中に居ると(特に通気が悪い大学のようなところにいると)、地獄である。昨日の映画館はさすがに冷房が効いていた。

 今日は夕方、そんな蒸し暑さの中、講演を聴きに行った。日本の木工技術史に関するものだった。
 会場は中くらいの広さの教室だったが(やはり蒸し暑かった)、聴衆はたったの14人、うち二人は主催者である日本学科の教授である。あちこちで宣伝されていた割にはひどく寂しい光景だった。そりゃあこの暑いのに、遠い国のやっちも無い(僕の故郷の方言で「つまらない」)木工の話など聞いてもしょうがないだろ、というのも正論だろうが、これはあんまりではないか。うちの学科の講演では、どんなにつまらななさそうな講演でももっと人が来ているぞ。
 ちなみに来ていた日本人は僕一人。そりゃあドイツに留学してまで昔の日本のことなどドイツ人に聞かされたくないわい、というのも正論であろう。しかし、少なくとも日本のことをドイツ語で聞かされると、(日独文化交流とかに興味が無くとも)ドイツ語のいい勉強にもなると思うんですがねえ。ぶつぶつ。

 講演では登呂遺跡に始まり、建築・工芸の両面から19世紀までの日本の木工技術の発達が紹介されていた。法隆寺、伊勢神宮、唐招提寺、そして神戸の十五番館までが挙げられていた。ちなみに講演した人はヘッセン州の文化財保護課の職員で、大学で日本学を学んで日本の木工技術に関する博士論文を書いている。
 日本は世界でもっとも木工が発達し、また細分化された伝統をもつ国である。それは日本は木材に恵まれているということもあるし、湿度の高い気候のせいで、冷房設備が無ければ石造りの建物などに住んでいられないということもあるし、地震や台風が多いので補修のしにくい石材建築は敬遠されたという事情もある。
(ヨーロッパも木材に恵まれているので、先史時代は木造建築ばかりであったが、ローマ人の到来とともに石材中心に切り替わる。その伝統は初期中世にいったん途切れ、再び木造建築が中心となるが、13世紀くらいから徐々に石造建築に切り替わっていった。北欧は比較的木造建築の伝統が残った地域であるらしい)
 そして日本の木工技術は、ヨーロッパなどから見れば比較的原始的な道具で、あれほどの精緻な工芸や建築を生み出したことも大きな特徴の1つである。日本で大型の鋸(「オガ」という。「おがくず」の語源ですな)や、こんにちのような鉋が出現して大型木材加工技術が飛躍的に向上し(それ以前は鋸で切らずに、楔を打ち込んで割っていた)、それにより木材選択の幅が大きくなるのは(それ以前はヒノキ材ばかりが使われていた)、ようやく14世紀(南北朝時代)になってからである。
 江戸時代には木工職人はさまざまに細分されていて、ここまで細分されている(そしてそれが記録として残っている)のは世界に他に例が無いそうである。指物師、曲物師、面作り、桶職人、琴作り、大工、そして極め付きは楊枝作りだろう。
 明治時代になって「西洋化」が始まっても、日本の木工技術はその伝統を保った。神戸に残る十五番館などは、一見木造には見えない完璧な西洋風建築であるが、こうした近代化遺産・日本の初期洋風建築も日本の木工技術があればこそ生み出された産物である。日本の「近代化」は新しい技術を導入しただけで成り立ったものではない。

 ドイツはよく「職人の国」といわれる(厳格な徒弟制度が存在し、職人の社会的地位も高かった)。実はそうした伝統は日本に共通するものである(いい加減なイメージのあるイタリアにも、こだわりの職人は多くいる。一方、トルコやアラブ世界ではこうした風潮は一部を除いてほとんど死に絶えかけている)。
 19世紀初頭に長崎のオランダ商館付医官として来日したドイツ人、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは多岐にわたる膨大な日本についての記録を残したが、その中には日本の大工道具の詳細なスケッチもある。これもドイツの職人の伝統が、シーボルトにこのような興味を持たせたのだろうか。このような詳細な記録は当の日本人も残していないという。また、今日の講演者であるヘンリクセン氏も毎年来日しては、戦後の機械化・高度経済成長で急速に失われつつある日本の木工技術を記録しているという(同氏は、日本の「人間国宝」の制度をドイツにないものとして賞賛していた)。
 浮世絵の場合もそうだが、結局日本人は「他者」の目を通してしか、自分の生み出した、(誰にでも分かる、押し付けがましい巨大なものや派手なものではなく)小粒でも世界的に素晴らしいものを認識できないのだろうかね。


2003/05/14(水) 岩倉米欧回覧使節団

今日の夕方は日本研究センターで展覧会「日本のヨーロッパ発見・岩倉使節団の1873年ドイツ訪問」の開会式があった。といっても展示はボン大学が作ったパネル展示の使いまわしだし、開会式といっても、先生の挨拶以外はシャンパン片手に展示を見る、というものだった。
しかし、最初に近代西欧文明に接した日本人の驚き、そして西欧文明をなりふり構わず急速に受け入れていく日本人へのヨーロッパ人の驚きというか困惑は、想像するにあまりある。黒船来航(1853年)からドイツへの日本人留学生の受け入れ(1870年代)までを扱ったこの展示も、ささやかながらそうした状況を説明している。
 
廃藩置県が断行されたばかりの1871(明治4)年12月、右大臣(!)・岩倉具視を団長とする米欧使節団がアメリカに向けて横浜港を出航した。団員はおよそ50人、大蔵卿(大蔵大臣)・大久保利通、参議(無任所大臣)・木戸孝允、工部(=建設・運輸)大輔(政務次官)・伊藤博文、外務少輔(事務次官)・山口尚芳など、なんと当時の明治新政府の閣僚の半分(!)がこの使節団に参加していた。その他、アメリカ留学すべく選抜された津田梅子(津田塾大学の創設者)や大山捨松といった子女も含まれていた。
この使節団の目的はいくつかあった。「革命政府」である明治政府を列強に承認させること、そして、前政権の江戸幕府当時に列強と締結された不平等条約(江戸幕府とドイツ帝国の前身・プロイセンも1861年に修好通商条約を結んでいる)を改正すること、そして列強の「文明」を実際に見学することであった。
結果からいえば、条約改正については欧米列強は日本の訴えにまるで聞く耳をもたなかった(最初の交渉国・アメリカと対したとき、岩倉の持参した全権委任状に条約改正に関する項目が無い不備を指摘されて相手にされず、大久保と伊藤が天皇の委任状を取りに慌てて一時帰国する失態を演じたという)。当時の列強からすれば、前時代的なサムライの国・日本など交渉するまとまな相手ですらなかったのであろう(この辺はなんだか今のEUやアメリカと、第三世界諸国の関係を見るようでもある)。
しかしこの使節団はアメリカに7ヶ月(当時からアメリカは日本にとって最も重要な国だったようである)、イギリスに4ヶ月など、1873年に帰国するまで三年にわたって欧米を視察し、各国首脳と会見したり、その先進技術の見学に時間を惜しまなかった。使節団に同行した佐賀藩出身の史家・久米邦武によってその記録は「特命全権大使米欧回覧実記」として残された。
この「米欧回覧実記」のもっとも印象的な一節がある。
「当今ヨーロッパ各国、皆文明輝かし、富強を極め・・・、欧州今日の富庶を見るは、1800年以後のことにて、いちじるしくこの景象を生ぜしむは、僅かに40年に過ぎざるなり」(原文はカナ遣い。漢字等を適宜補った)
ヨーロッパの繁栄はせいぜいこの40年以来のこと、それなら頑張ればなんとか追いつけるんじゃないか、という感想を使節団は持ったのである。正しい歴史認識だったし、この気概があればこそ、今の日本があったのではなかろうか。今ではヨーロッパは日本人にとって(ドイツに留学する我々にとってさえも)、ロマンチックな一地域でしかない。

有名な一枚の写真がある。使節団がアメリカ・サンフランシスコで撮ったものらしいが、使節団の首脳が一堂に会している。異様なのは中央に座る団長の岩倉右大臣(公家出身・47歳。この写真では萩原健一に似ている)、着物(直垂)姿に公家髷で靴を履き、シルクハットを手にしている。一番左には、若い頃は京都の芸者にモテまくった木戸参議(桂小五郎・長州人・39歳。風間杜夫をふっくらさせた感じ)、その左には、藩命でオランダ語と英語を学ばされ、それがために新政府の外務省に入った山口尚芳(30歳・佐賀人。えらく老けた30歳だ)、岩倉の右には、扁平な顔の若き伊藤博文(俊輔・31歳・長州人。のちの初代総理大臣で旧1000円札の人。この頃は勝俣州和に似ているように思う)、そして右端には、手足が長く彫りの深い顔立ちの大久保大蔵卿(一蔵・薩摩人・42歳)が、それぞれ洋服・シルクハットで構えている。つい3年前までちょんまげ、裃(かみしも)に大小(刀と脇差)を差していたとは思えないほど、大久保や木戸の洋服姿はサマになっている。
もともと尊王攘夷主義者で保守的だった岩倉は欧米視察中もこの姿で通したが、やがて西欧文明の偉大さを知るに及び断髪、洋装に改めた(イギリスのヴィクトリア女王に謁見する際、洋装に改めたという)。我々が知っている旧500円札の岩倉の肖像はこの使節団のあと、彼の最晩年(1883年死去)のものだろう。大政奉還の際(1868年)の陰謀(討幕の密勅)とこの使節団の団長を務めた以外、我々は岩倉の事績について多くは知らない。彼は明治新政府の維持と、見込んだ大久保を活躍させることのみに腐心したように思われる。
1873年の使節団の帰国後、使節団に参加した閣僚と、その間留守を守っていた閣僚との間に紛争が起きた。いわゆる「征韓論」である。その経緯などは略するが、留守閣僚たちは一斉に辞任し下野した。参議・近衛都督にしてただ一人の陸軍大将・西郷隆盛(薩摩人)、司法卿・江藤新平(佐賀人)、外務卿・副島種臣(佐賀人)、そして板垣退助、後藤象二郎といった土佐閥の参議たちである。西郷・江藤は故郷で士族の叛乱を起こして敗死し、板垣らは自由民権運動を始めて、野党として政府に対抗したり妥協したりを繰り返してゆく。
政争に勝った「知欧派」の大久保、伊藤がそののちの明治政府の中心となった。彼らの国作りの手本は、「鉄血宰相」ビスマルク率いる新興国・ドイツ帝国だった(1871年に国民国家として統一されたばかりだった。もっとも、木戸のみはイギリスの議会政治が気に入ったようだが、大久保は「時期尚早」と退けた)。
木戸は独裁的な大久保への不満と、持病の結核のために間もなく隠居同様になり、1877年に病死した。大久保は内務省を創設して内務卿に就任し、江藤・西郷の乱を鎮圧して政治改革を独裁的に推し進めたが、1878年に石川県士族・島田一郎に暗殺された。その後を継いだ伊藤は調整型の政治家で総理大臣等を歴任し、最晩年は韓国統監となり(それゆえ韓国では豊臣秀吉と並んで憎まれているらしい)、1909年、ハルピン駅で朝鮮人愛国者・安重根の放った凶弾に倒れた。

この使節団はなんと、1873年5月3日にマールブルクにも寄っている。ハンブルクからフランクフルトに向かう汽車で通ったようだ。「米欧回覧実記」が手許に無いので、ドイツ語から日本語に訳したものを以下に紹介しよう。
「・・・30分後、我々はマールブルクに到着した。マールブルクは人口8500人、ヘッセン・カッセル公国の有名な都市である。その駅は非常に大きい・・・」
今のマールブルク駅はドイツの主要都市では小さいほうだし、かつてのマールブルク駅もとりたてて大きいものには見えない。間違って記録されたのか、彼らの目にはこんな駅舎も壮大に見えたのか、それともマールブルクには他にとりたてて書くものが無かったのか。


2003/05/17(土) マインツのローマ人祭り

今日はS君とフランクフルトとマインツに行ってきた。
フランクフルトでは考古学博物館に行く。今やっている特別展「ヴァルスの会戦」を見るためだった。

・・・時はローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの治世の晩年、西暦9年、プブリウス・クインクティリウス・ヴァルス率いるローマ軍三個軍団(第17・18・19軍団、約1万5千名)はゲルマーニア(現在のドイツ北部)の奥深くに侵攻していた。
対するゲルマン人のケルスキー族の酋長アルミニウス(現代ドイツ語の名前でいえばヘルマン)は、ガリア(現在のフランス)をたった数年で征服したこの歴戦のローマ軍団と正面から戦う愚を避け、地理不案内なローマ軍を、湿地帯が多く深い森に覆われたトイトブルクの森に誘い込んだ。隠密裏に接近したゲルマン人は、身上である組織力を地形上の制約により封じられたローマ軍を包囲殲滅、司令官ヴァルスは自決した。
ローマ帝国の機動軍の実に十分の一が消滅するという悲報を聞いた老皇帝アウグストゥスは、「ヴァルスよ、我が軍団を返せ!」と叫んだという。この敗戦はローマ人の記憶に刻み付けられ、以後ゲルマーニアに対する領土的野心を失い、専守防衛に徹するようになった。またこの敗戦の日は毎年喪に服することとされていた。

アメリカにとっての「ベトナム」並みの意味を持つ(この言い方はちょっとあざとすぎるかな)、この「トイトブルク」は長らく位置が分からなかったが、1987年、ニーダーザクセン州カルクリーゼKalkrieseで、現地に駐屯していたイギリス軍将校がローマ貨幣と共に鉛の投弾を発見した。その地は長らくローマ貨幣が拾える場所として知られていたが、武器の発見により発掘が始まり、たくさんの武器の破片やローマ時代の遺物が発見され、ここが歴史に名高いトイトブルクであろう、ということになった(実際には、歴史書のトイトブルクに関する記述により合致する別の遺跡がその後発見されたらしいのだが)。
カルクリーゼには現在博物館が建っており、今日のフランクフルトでの展示はそこの博物館から借りてきたものだった。展示自体はあまり大した物ではなかった。
「トイトブルクの戦い」(もしくは敗北した司令官の名前をとって「ヴァルスの戦い」)は、ゲルマン人を祖とするドイツ人にとって民族主義の時代には大きな意味を持ち、特にナチス時代にはさまざまなプロパガンダに用いられ、ケルスキー族のヘルマン(アルミニウス)は民族の英雄扱いされたこともある。

フランクフルトではその他、日本食品店と日本書籍店に行く。前者は寿司の立ち食いコーナーを拡張したせいで販売面積が減少している。僕はインスタントラーメンを買う。後者の本屋も改装のためか売っている本がえらく少ないし、高い(日本での価格の約3倍)ので何も買わない。

その後マインツに行き、先月も行ったラインラント・プファルツ州立博物館に行く。今日と明日の二日間、この博物館の中庭で「ローマ人祭り」が行われている。マインツの町の起源はローマ軍の駐屯地モゴンティアクムMogontiacum(ケルト人の神モゴンスに由来する地名らしい)に由来することは前の日記に書いたが、今この博物館でローマ人に関する特別展が開かれているのに合わせてこの祭りが開かれているのである。
メインはローマ兵に扮した人々による訓練の再現やローマ時代の料理の再現、そしてローマ時代の工芸技術(骨製装身具、彫刻、石臼、手編みなど)の実演である。思ったより規模が小さく、ちょっとがっかりしたが、それでもまあ面白かった。
ローマ兵の扮装をしている人たちは10人くらいいたが、「第26コホルス」(コホルスはローマ軍の部隊単位で、平均600人。現代風の軍事用語でいうと「大隊」になる)という趣味サークルの人たちで、自分たちでローマ時代の武装(兜、鎖帷子、盾にサンダル履き)を手作りで再現し、またそれを着て皆で集まって楽しむ(いわばコスプレですな)という人たちである。どうみても「オタク」なのだが、こういう人たちは侮れない。こういう団体がドイツにはいくつかあって、去年はその初期中世の団体に会ったことがある。また今日も、ゲルマン人に扮した別の団体による「乱入」もあった。なんかすげえなあ。
ローマ時代の料理は、ちょっと食べる気がしなかった。麦粥に蜂蜜と酢とブイヨンを混ぜて煮込んだものを食べる気になれますか?。さらにローマ時代のお化粧や髪型の再現というのもあった。「後家の化粧」というのは目の回りが真っ黒で、なんだか怖かった。


2003/05/20(火) 「弥生人」は「商人」か??

明日は単発で地底探査(磁気探査)の手伝いのアルバイトをするはずだったのだが、調査予定地(麦畑)の地主が許可しなかったためにとりやめになった。

昨日インターネットのニュースで見たのだが、弥生時代の開始が定説より500年も早くなって紀元前10世紀頃になるのではないかとする調査結果が発表された。
この分析をしたのは千葉県佐倉市にある国立歴史民俗学博物館の研究グループで、佐賀県などから出土した複数の弥生式土器の中に付着した炭化した米粒を分析(放射性炭素がどうたらいうものだが、これは僕も苦手なので省略)し、紀元前9世紀のものという結果を得た。類似する朝鮮半島出土の土器についた米粒(米を調理する際に焦がしちゃったのかね?)の分析でも同様の年代を得た。
この土器は弥生時代でも最古のものではなく、さらに古いものがあるので、弥生時代の始まりは「遅くとも紀元前10世紀」という結論に達したという。

学校の歴史の授業では「日本列島での稲作(=農耕)は弥生時代に大陸からもたらされ、それは紀元前四世紀頃である」と教えられてきた。ところが最近岡山県や九州を中心に、縄文時代中期の遺跡(紀元前3000~2000年頃)、さらには縄文時代前期(紀元前5000年以降)の遺跡からも、米粒(厳密にはプラント・オパールという地中に残った稲の成分)が見つかることが相次いだ。稲は日本の在来植物ではないから、大陸から人間が持ってこない限り日本にはありえない。稲作は紀元前四世紀に大陸から来た「弥生人」がもたらした、という単純な図式では説明できず、それ以前にも数度に渡って大陸から稲と共に人が来たと考えられるようになっていた(そしてその時はおそらく稲作は日本に根付かなかった)。
そして今度は、「弥生時代」の開始を示す、弥生土器そのものの年代が古くなる分析結果が出てきた。こうした化学分析結果を利用するには十分な検討が必要なのだが、これはやはり歴史の書き換えを迫るものだろう。
それにしても、旧石器ねつ造事件のときもそうだったが、考古学というのはなんとももろい前提の上に議論を進めていることか。だから面白いと開き直ることも出来るけど。

今までの年代だと、弥生時代は紀元前四世紀に始まり、大陸からもたらされた稲作はその圧倒的な生産力を背景として急速に(数世代の内に?)九州から青森まで広がり、それが急激な社会の変化(貧富の差など)をもたらしてやがて急速な国家形成を促す・・・と、とにかく「急激な変化」が強調されていた。そして大陸から稲作を持った人々が来た背景として、中国における戦国時代(紀元前403~221年)の動乱を逃れた「難民」の性格がある(中国から直接来なかったにしても、連鎖反応によって人口の移動があった)、という説明がされていた。
ところがもし今回の分析結果が妥当だとすれば、本格的な稲作を伴う弥生文化は紀元前10世紀頃にまず九州に上陸し、数百年かけて徐々に縄文文化(限定的な稲の利用があったらしい)の栄えていた日本列島に広まっていった、ということになる。またこの時代の大陸側の情勢はというと、「酒池肉林」の故事で知られる紂王の殷(商)王朝が、周の武王によって倒された時期(紀元前1027年頃)の直後である。
中国語や日本語の「商人」という言葉は、商王朝の遺民が中国各地を放浪しつつ交易をしたこと(あたかも中近東・ヨーロッパでのユダヤ人のように)に由来するという。この「商人」と「弥生人」が同じルーツをもつ、というのはもちろん飛躍のしすぎだが、同じ時代に属するということは頭の片隅に置かれてしかるべきではないだろうか。あくまで上記の分析結果を受け入れるなら、の話だが。


2003/05/06(火) ドイツ最初の先史学教室

今日も夕方講演会だった。1927年、マールブルク大学にドイツで最初の「先史学・原史学教室」が設置された際の裏話のような内容だった(ベルリン・フンボルト大学の人)。面白かったが、それほど感動するというものでもなかった。聴講者もいつもよりかなり少なかった。

もともとヨーロッパでは「考古学」というのはギリシアやローマの古典文明を研究対象にしていた(しかも今のような発掘中心の考古学ではなく、美術史の要素が強い)。誤解を恐れずに日本で例えれば、日本人が中国の漢代や三国志の時代を研究するようなものである。というわけで、ドイツの大学の「考古学教室」ではそういった授業が中心で、ドイツそのものを対象にしたものではなかった。
もちろんドイツ・ナショナリズムの興隆にともなって、19世紀後半にはドイツにおける先史時代の知識は格段に拡大していた。1900年にはべルリン大学のグスタフ・コッシナ教授が「ドイツ考古学」の講座を始めた(古代ゲルマン人の研究を中心としたコッシナ学派は、その後ナチス政権のプロパガンダに利用され、その負の面のみが日本でも有名になってしまった)。もっとも彼は「特別教授」という客員のようなもので、考古学講座に属する正式な教授ではなかった。
マールブルクの古典考古学教授であったパウル・ヤコブスタールは、ギリシャ文明とドイツ先史時代の文化交流を研究するうちに、ドイツの先史時代研究の重要性に気づき、マールブルク大学の創立400周年(=1927年)記念事業の1つとして、マールブルク大学にドイツで最初の「先史学教室」(従来の「考古学教室」と区別するためにこの名前になった)を設立するプロジェクトを始めた。

問題は初代の教授であった。マールブルク大学にはもともとヴァルター・ブレマーというドイツ先史学の専門家がいてその素地はあったのだが、ブレマーは1925年にダブリンのアイルランド国立博物館に転出、翌年夭折していた。そこでヤコブスタールらは4人の若手考古学者をリスト・アップして候補とした。
候補者の一人はウィーン大学教授であったエドゥアルド・メンギン、もうひとりはマインツのローマ・ゲルマン中央博物館の助手だったゲロ・フォン・メルハルトである。なぜかともにオーストリア人で、ふたりともウィーン大学で学んだ人である(メルハルトはもともと地質学の学生だったのだが)。上記のコッシナ率いるベルリン学派とは一線を画していた。
その後ヤコブスタールらは人選をすすめ、「先史学教室」の進むべき方向性や候補者の政治的信条なども人選上の考慮事項になったらしい。結局、イデオロギーなどに縛られていないメルハルトが選ばれ、1928年4月、彼はマールブルク大学に教授として招請された。
教授に着任したメルハルトはベルリン学派のような「ドイツ・イデオロギー」に縛られることなく、客観的・中立的・データ重視の研究を教え子たちに広めた。メルハルトは第1次世界大戦でロシア軍の捕虜となった経験もあり、東方にも広い視野をもっていた。やがてマールブルクに続いて次々とドイツの各大学に「先史学教室」が設置され、その多くはマールブルクをモデルにしていたようである。

ここからは講演内容ではないが、続きがある。やがてナチスが政権奪取(1933年1月)して、大学研究の場にも政治が介入してくることになる。
ユダヤ人だったヤコブスタールは1935年に職を追われイギリスに亡命、オックスフォード大学教授としてその生涯を閉じた(彼の主著「Early Celtic Art」は英語で書かれた)。メルハルトは戦時中にベルリン学派のナチスの御用学者たちに激しい攻撃を受け、1942年に追われるように大学を退職。戦後に復職し名誉教授になっている。メンギンはオーストリアの教育大臣であった時にドイツのオーストリア併合(1938年)に直面、結果的に閣僚としてドイツへの併合に賛成してしまった。敗戦(1945年)後、立場の悪くなったメンギンは、1947年にブエノスアイレス大学に招かれ赴任、半ば亡命だったのか、死去する1973年までアルゼンチンにとどまり、オーストリアに戻ることはなかった。
僕の先生はメルハルトから数えて3代目の主任教授である。

マールブルク大学にとって1920年代は黄金時代だったのだろうか。哲学者のマルティン・ハイデッガーもいたし(当時彼は助手だったかな。その後フライブルクに転任)。今でもまあ悪くない大学なんだろうけど、考古学では主導的な大学といえるかどうか。ここの出身で要職にある人は結構居るが。ちなみに現在の政治家で有名どころはハンス・アイヒェル財務相くらいだろうか(彼の評判はかなり悪いが)。


2003/04/29(火) 2200年前の水道管

 今日の夕方は地学科の講演を聴きに行った。演題は「ヘレニズム都市における水供給」である。これが意外に面白かった。
 トルコのエーゲ海岸にペルガモンPergamonという遺跡がある(現代名ベルガマ)。紀元前3世紀から数百年にわたって栄えた都市の跡だが、19世紀末にドイツ人によって発掘され、その最も素晴らしい建物である大祭壇はそっくりドイツに運ばれて、今はベルリンのペルガモン博物館に再建されて飾られており、ベルリン観光の目玉の一つになっている。
 ついそういった美術品やモニュメントに目を奪われがちだが、実際のところ紀元前3世紀の人々はどうやってこの都市に暮らしていたのだろうか。人間は生活するのに一日10リットルの水を必要とするという。人口一万人だとすると一日100tの水がその都市に供給されなくてはならない。
 この地域(トルコ西部)の年間降水量は750mmと、意外にもドイツとあまり変わらないが(ちなみに東京の年間降水量のほぼ半分)、ドイツと違い夏の数ヶ月間はほとんど雨が降らないので、その間の水はどう得ればよいのであろうか。ましてやペルガモンは防衛上の理由から険しい岩山の上に築かれている。土を掘れば岩ばかりで、水が出てくるということはほとんど期待できない。
 ベルリンに運ばれた大祭壇の周りには、深さ7mにも及ぶ無数の貯水槽が地下に設けられていた。これは雨水とかを貯めるためのものだが、これでは数千の市民の水源とするにはとても足りないだろうし、夏は減る一方である。
 そのためペルガモン市民はなんと30km離れた山地の水源から、地下に埋設した土管を使って水を運んでいた。サイフォンの原理を使ってより高いところにも水を通すことができたのである(当たり前だが、水は普通高いほうから低いほうに流れる)。ある水道は地形上の制約から総延長50kmにもなり、使われた土管は15万本に及んだ。一つの土管は長さ60cmほど、太さ18cmくらいだという。ペルガモン市に水を供給するために、こうした地下水道が少なくとも7つあったらしい。
 こうした水道施設は続くローマ時代に最盛期を迎えるが(各地に水道橋が残っている)、水道問題は人間が都市という「反自然」的な生活をする限り常につきまとっている。ちなみに、今アメリカ軍が占領しているバグダードの地下には、さまざまな時代に作られた上下水道のトンネルが巡らされているという。

 手前味噌だが、去年僕が参加したトルコでの発掘でもっとも印象的な発見がこの水道管であった。
 遺跡の横の小麦畑(休耕中)でレーダーや電波を使った地底探査をしたところ、100m以上にわたって破線状に連なる奇妙な物体の影が映った。ある日責任者であるAと僕がその地点を掘ったところ(村人に見つかると同じ地点を盗掘される恐れがあったので秘密裏に)、地下30cmくらいのところから完全に残った水道管が出てきた。
 土管は一つが長さ70cm足らずで、片方の先端が口に向かって先細りになっており、それを次の土管の口に差し込んで繋げてある。土管のひとつひとつにヒッタイト語のヒエログリフで「王」を意味する記号が彫られており、紛れも無くヒッタイト時代の水道管だった。上のペルガモンのものよりさらに1000年以上古いものである。遺跡の背後にある山から上水道として水を引いてきていたらしい。
 あたりは現在はただの殺風景な小麦畑である(今も地下水脈があるのか、物成りのいい畑らしい)。そこからこういうものが出てきたことに、そしてこんなところ(今は見渡す限り畑と岩山だらけの寒村である)に都市を営んだヒッタイト人の労力に、僕は感動した。

 比較的水に恵まれた日本でも、人口の密集する都市では水道は必要だった。なかでも江戸の上水道は有名である(両国の江戸東京博物館で実物を見ることが出来る)。江戸の市民は取水口の大きさに応じて水道代を払っていた。日本では長らく水道管は木製と相場が決まっていたが、明治になって煉瓦造りの水道管が作られるようになった(こちらは横浜都市発展記念館で見た)。
 上水と同時に、排水(下水)の問題もあり、こっちも実に面白い問題なのだが、これはまた後日。



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